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お相手はおそらく太宰氏





「おにーさん・・・大丈夫です?」
河川敷にて、空腹で倒れ込む中島敦に場にそぐわない呑気な声が響いた。それに苛立った理由は一つ。言わずとも知れるだろう、と。空気を読まない発言に八つ当たりとも言える感情が燻るのも仕方ない。
「・・・・・ちょっと限界そうです」
とは言え、行き倒れを目にして無視するわけでもなく声を掛けるなんて奇特な人が居たものだと思う。そこに微かな配慮が見え隠れする。否、実際のところは別のところでそれを発揮して欲しいのだけど。振り絞るようにそう言葉を紡げば「あららぁ・・・」と、少女の呑気な声。本当にマイペース極まりない。
不意に持っていた鞄の中身を少女が漁る。時折聞こえる「あれ?」という声は何かを探しているのか。それから暫くゴソゴソと鞄を漁っていたが、不意に歓喜の声が聞こえる。彼女は一体何がしたいのか。
というより、この子は何者なのだろう。

***


「足しになるか分からんけど・・・・・はい」
そう言って差し出されたものは「かろりー・・・めいと?」たどたどしく読み上げる。味はチョコレート。黄色い箱を引き裂くように開けて中身に貪り付いた。口内の水分が勢いよく奪われていくような感覚。だが、それより空腹を満たそうとする本能の方が勝った。食べ終わっても満足とまでは到底いかない。が、少なからず足しになったのは事実。少女に礼を言おうと敦が顔を上げるとそこに誰も居なかった。


「ありがと・・・えっ・・・ええっ!?」
ほんの少し前までそこに気配があった。いつ消えたのか。食べることに夢中でも流石に気付ける筈だ。なのに少女はいつの間にか姿を消していた。キョロキョロと辺りを見渡すがそこに人気はまるでない。
全身が一気に総毛立つ感覚。本当に、そこに居たのに。その証拠に、手には貰った食べ物が存在する。あれが幻覚だとするならこの手には何も残らない筈だ。冷静になろうと、少女の姿を思い出してみる。顎のラインで切り揃えられたサラサラした烏の濡れ羽色の髪。黒縁眼鏡。その向こうには漆黒の双眸。
―――確かにいた。


(・・・・・気配!)
ハッとして目を向ける
思わず二度見した。目を向けたのは河川で、水面から垂直に伸びる二本の足が流れてきた。あゝ鳥か。否、鳥の筈ない。現にその不審な存在に鳥達が警戒し、あまつさえ攻撃を始めた。タプン。足が沈む。助けるべきか否か思案する。否、するまでもない。というより、目も当てられないというべきなのか。
今日は厄日じゃないだろうかと本気で思った。他者から略奪してでも、この体の飢えを凌がなければ。そう思っていた矢先に一時的なものとは言え、食べ物を恵まれたことは情けないのもあるが有り難い。有難いのだが礼を言うにも当事者は姿を消した。そして、今度は川に落ちた他人を救助するだなんて。せっかく蓄えたものが台無しだ。ただでさえ消耗しているところに追い打ちを掛けられて体力は限界。


「あ、いたいた・・・おにーさん探したよー?」
対岸にたどり着いたところで聞き覚えのある声が耳に届いた。ゆっくりと顔を上げるとそこには少女。人懐っこいを笑みを浮かべながら彼女は「はい。喉渇いたやろ?」と、ボトル入りの水を手渡された。
「あ・・・ありがとう」
困惑を隠し切れないままそれを受け取る。そして空いた手で拾った人物を残った力の限り引き上げる。その人物を目にした少女が小さく声を漏らした。おそらく自分以外に人が居たことに驚いたのだろう。だがどこまで準備が良いのか、というか、お人好しなのか。少女は鞄からタオルを取り出して渡した。
「ごめんね。もうちょっと買い足した方が良いかとも思ったんやけど・・・・・」
拾い人を尻目に少女は苦笑を浮かべ言った。「まあ良いかなって」と、聞こえたのは気の所為だろう。というか、そうだと思いたい。仮に最後のそれが本音だったとして、先程の施しは正直、有難かった。
「いや、そんな・・・充分過ぎるよ」
僕なんかに、という言葉を辛うじて飲み込む。彼女がどんな気まぐれでそれを行ったのかは知らない。だが、その気まぐれに救われた人間も居るのだ。「・・・君は?」と、不意に口を開けばそう尋ねていた。少女は自身を指差して小首を傾げた。それに頷いて応じる。この場には敦と少女と拾い人しか居ない。
「逢隈彩俐」
少女――彩俐は嬉しそうに笑って名乗った。「彩俐でええよ~」と、癖のある口調に敦は首を傾げる。西の方の訛りなのだろう。「おにーさんは?」と、返されてハッとする。聞いておいて自分はまだだ。
「僕は・・・中島敦だけど」
流石に恩人に失礼と思い名乗るが、そこでふと鎌首を擡げる。名乗る必要性があったのだろうか、と。所詮は一期一会の他人でしか無い。名を尋ねることも、名乗る必要性も無かったのではないだろうか。だが、彩俐はそんな敦の思考などお構いなしに「じゃあ、敦君やね」と、人懐っこそうに笑っている。


(ちょっと無防備過ぎないか・・・?)
見ている方が心配になる
赤の他人を前に、こうも警戒心なく振舞われると困惑する。敦に他意があるわけではない。勿論無い。無いにしても、だ。もう少し警戒心を抱くなり何なりするべきだろう。彩俐は仮にも女子なのだから。若さ故の無防備さなのかも知れないが傍目に見ていてハラハラする。横浜は治安が良いとは言えない。
故に――


「なあ、ところで太宰さんいつまで狸寝入りしてんの?」
その世間知らずなお人好しは命取りだと思った。が、その考えは彩俐の言葉で一瞬にして吹き飛んだ。溜息混じりに吐き出された言葉。投げ掛けた先は、先程、河川から拾い上げた人物に向けられていた。
「え、知り合い・・・?」
覗き込むように拾い人を見遣れば唐突にその目が開く。思わず敦はびくりと肩を揺らして後ずさった。その反応も想定内だったのか、彩俐が苦笑を浮かべて「まあね」と、答える。「困った人やわ」、と。
「―――助かったか・・・・・・・・・・・・・・・ちぇっ」
緩りとした動作で身体を起こした拾い人――曰く、太宰が残念そうに呟く。それを拾って驚愕する敦。命を拾ったにも関わらず「ちぇっ」とはどういう了見だ。「『ちぇっ』じゃないよ『ちぇっ』じゃ」。諌めるその言葉に敦は全力で頷いた。だが太宰は「君かい?私の入水の邪魔をしたのは」と言い出す。
「邪魔なんて僕はただ助けようと――入水?」
咄嗟に反論を口にしたが途中で違和感に気付く。目の前の男は今、何と言ったか。入水と言ったのか。意味を間違えて理解していなければ、入水とは水中に身投げして自らの命を絶つ事。詰るところ自殺。
この男は――


「私は自殺しようとしていたのだ それを君が余計なことを―――あいたっ」
自らを殺そうとしていたのだと語るその男の後頭部をどこから出したのやら分厚い本が襲う。呆れ顔。後頭部を摩りながら「非道いじゃないか」と反論する太宰に「どこが?」と、冷ややかに切り返す声。そして「仕事を抜け出して自殺しようとする方がどう考えても酷いやろ」と、最もな言葉に同意する。
「えっと・・・・・彩俐、ちゃんの知り合い?」
その応酬から気心知れた存在という事は分かる。分かるのだけど、二人の関係性がいまいち見えない。思わずそう尋ねると彩俐と太宰の視線が同時に敦に向いた。これには少なからず怯むのも仕方がない。
「知り合いというか・・・・・得意先?もしくは、家主?」
なぜ疑問形なのか。というか、意味合いがまるで違う。これは突っ込み待ちなのだろうか、と思った。だが、彩俐に目を向けたところで相変わらずあの人懐っこい笑みを浮かべるだけで、答えが見えない。
「拾い主という選択肢もある」 「いや、拾ってくれたのは晶子さんよね」
あまつさえ、目の前で繰り広げられている会話に空腹で酸素の行き渡らない頭では理解が追付かない。というか、痴話喧嘩なら正直余所でやって欲しい。空腹で思考が纏まらないというのに、容量過多だ。


――くうぅうう
堪え切れずに腹の虫が盛大に鳴いた。ハッとして咄嗟にお腹を押さえて、目の前の二人に目を遣った。口論はいつの間にか終わっていた。否、それどころかおかしい。違和感に気付いたのは彩俐を見てだ。慌てたようにお腹を押さえてわたわたとしている。そして、その隣では太宰が腹を抱えて笑っていた。
冷静に考えたところで敦は答えに辿り着いた。先程の腹の虫は自身のものではなかったということに。よくよく考えればそれは何とも控えめな音だった。己の虫ならもっと盛大に空腹を訴えることだろう。再度、彩俐に目を向ければバツの悪そうな顔で「・・・・・お昼ごはんまだやったんやもん」と、ぼやく声。
あゝ成程。
自身の食事を分け与えてくれたのだ、と。とんだお人好しが居たものだと敦は思わず笑ってしまった。あまりにも突然笑い出すものだから太宰と彩俐も顔を見合わせて目を丸くする。一体全体何事か、と。


「まあ――人に迷惑をかけない清くクリーンな自殺が私の信条だ」
そして悩んだ末に太宰が切り出した。どうしてそこからなのかと内心彩俐は突っ込むが言葉にしない。したところで愚問だ。太宰がこの上なくマイペースな人間であることはこの一年で十二分に理解した。
信条がありながら敦に迷惑を掛けた。その落ち度に対する詫びを、と、口にするがそれを遮る腹の虫。一瞬、視線がこちらに向けられたが全力で否定した。腐っても女子だ。こんな大きな音は鳴らさない。そして音を辿れば敦に行き着いた。含んだ笑みを浮かべて太宰は「・・・・・空腹かい少年?」と、問うた。


「じ 実はここ数日何も食べてなくて・・・・・」
縋るように言う。恥も外聞もかなぐり捨てて構わない。一刻も早く食事にありつきたいと本能が叫ぶ。だが、言い切るよりも先に本日三度目の腹の虫が鳴り響いた。敦は彩俐に、彩俐は太宰に目を向けた。


「私もだ ちなみに財布も流された」
「ええ?助けたお礼にご馳走っていう流れだと思ったのに」
「彩俐に奢ってもらい給え」
「薄給の身ですけど?大の大人、しかも男が揃いも揃って奢れってか」
シレっと言い放つ太宰に当てが外れたとばかりに敦が思わず本音を口にする。それに間髪入れず返る。投げ掛けられた言葉に敦が「え?」と困惑した声を漏らすがそれよりも先に彩俐が言葉を切り返した。彼女もまた空腹をカロリーメイトで凌ごうとしていた身だ。節約していたのだろう。目が座っている。
恩人に二度もたかる気は流石にない。首をぶんぶんと横に振って敦は彩俐の問いに否定の意を示した。誤解を解いて欲しいとばかりに太宰に目を向ければ彼は「なにか?」と言わんばかりに小首を傾げた。問題は大有りである。「「?」じゃねぇ!」と、思わず突っ込むのもまた、仕方のないことだと思う。
不意に対岸から呼び掛ける声が響いた。
三人同時に対岸に目を向けるとそこには眼鏡を掛けた長身の男が佇んでいた。どうやら、怒っている。唐変木の呼称はどうやら太宰を指すらしい。「おー国木田君ご苦労様」という呑気な声に此方は脱力。


「苦労は凡てお前の所為だこの自殺嗜癖!お前はどれだけ俺の計画を乱せば――」
以下略。彼方は大分ご立腹の様。原因は言うに及ばず。「今日の相方は国木田さんかぁ」と呑気な声。どうやら対岸の彼も彩俐の知り合いらしい。なんとも嬉しそうに国木田にひらひらと手を振っている。
「そうだ君 良いことを思いついた 彼は私の同僚なのだ彼に奢ってもらおう」
太宰の唐突な提案に間抜けな声が漏れるのも仕方がない。「聞けよ!」という対岸の怒声も上の空だ。そして不意に名前を尋ねた。それに応える声に「ついてきたまえ敦君」と促す。その隣を彩俐が歩む。足取りが軽いのは後に待つのが食事だからだろうか。「何が食べたい?」と、太宰が再度、敦に問う。
「はぁ・・・・・あの・・・・・茶漬けが食べたいです」
もっと他に食べたい物はあった筈だ。が、問われた瞬間、脳裏に浮かんだのは一杯のお茶漬けだった。かつて孤児院の台所で人目を忍びこっそりと夜に食べた一杯のお茶漬け。あの味が忘れられなかった。
故に、もう一度食べたいと思ったのはお茶漬けの味だった。言葉にした瞬間、太宰が小さく噴き出す。その隣で彩俐が小さく肩を揺らした。「餓死寸前の少年が茶漬けを所望か!」と盛大な笑い声が響く。続いたのは「良いよ 国木田君に三十杯くらい奢らせよう」と「んじゃ、私は鮭茶漬けー」という言葉。


「俺の金で勝手に太っ腹になるな太宰!」
幾度目かの怒声。その中で淳の耳に残ったのは今更ながら太宰という名前。もう幾度も耳にしている。だが本人から聞いてないというのも不可思議。「太宰?」と、尋ねる敦に「ああ私の名だよ」と返る。
緩慢な動作で振り返って太宰が言う。「太宰 太宰治だ」――と、まるで道化のようだと内心思った。否、それが彼の普段通りだということも理解はしている。が、そんな印象を受けたのだから仕方ない。敦と太宰を置いて先に国木田と合流しようと歩調を早める。その出会いを目の当たりにしてざわつく。


(ああ、そうか・・・・・)
不意に足を止めた
ぼんやりと空を仰ぐとうんざりするほどに青い。胸のザワつきがほんの少しだけ緩和される気がした。そして気付いだ。こんなにも気が落ち着かないのは物語が始まる事を悟ったから。だから、不安だと。一つの異物が介入したことでどうなるのか読めない。故に起こる出来事に不安を感じざるえないのだ。
―――が、弱音はここまで。
未だ来ない時に慄くことは愚か。たとえ何が起ころうとも流れに身を委ねることだけが許されている。たとえばそれが意に沿わない未来だという言うなら、変えてしまえば良い。それが、己に出来ること。深呼吸一つ、もう一度だけ澄み渡る青空を仰ぐ。そして、目を背けるように足元へと視線を落とした。


「国木田さーん!私、鮭茶漬け!鮭茶漬け食べたい!」
まるで父親に強請る子供のようにそう言って、国木田に駆け寄る。「今日は休暇か?」と、問われる。それに対し「10日振りのお休みー!一週間って何日やっけ?」と愚痴る声。そして、二人が追いつく。


 

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