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ネタ帳
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乱世(3軸)・其の壱

どうにも嫌な予感を拭い去る事ができず彩俐は大阪城へと馬を走らせる。これが杞憂で住んだならば幸いだっただろう。しかしどうにもこの感覚は放って置けない。彼女の本能が危険を知らせる。同時に心の中で彼の人の姿がぼんやり浮かんだ。それをはっきりと視認して彩俐は手綱を握る手を強めた。


(どうか…無事で…!)

何よりも強く想う

こう言っては三成に叱られてしまいそうだが、それでも思ってしまう。彩俐にとって大阪城など物でしかなく、然したる意味を持たない。彼女にとって重要なのはその城に居る人だ。艶やかな花の様に凛然と佇んで、亡き夫の城を女だてらに守る女人。されどもその実、彼女がとても繊細でたおやかである事は幼少の頃から共に育った彩俐が一番理解している。この世界でたった一人の彩俐の肉親。そして、守りたい大切な人だ。

あの時は自分の力が及ばず姉自ら人質の様な形で竹中半兵衛の下へと嫁がせてしまった。結果として幸せだったのかは分からない。その心は千尋だけのものであり彩俐が理解するには到底及ばない。だが、あの時の戦は彩俐にとって間違いなく負け戦だった。心折れるまでは無くとも、これ以上の兵の疲弊と戦力の喪失を危惧した姉が自ら人質として和平を申し出た。姉にだけは政略の中に巻き込みたく無かったのに。あの日を境に彩俐は新たに強く心に誓った。この命に代えても守りたいと願う――。





「久し振りやね、家康君」

大阪城城内まで侵攻した徳川家康は西軍大将、石田三成の不在の中、大阪城内の一切を取り仕切るその人物と向かい合っていた。口調は穏やかに言葉を発する。しかしその反面、家康の動きに警戒しているのか、愛娘の千代を着物の裾に隠しながら正面から家康を見据えた。

千尋は聡明な女人だ。絆で天下を平定すると豪語する家康が無駄に千尋の命を奪おうというつもりでない事は容易に理解できる。さりとて、千尋が望む答えを返さなければ事はどう転ぶか分からない。家康も千尋も互いに武器を持たない身である。だが、実際は武器を持たないわけではない。家康の武器は己の拳である。千尋とて刀を扱えないわけではない。ただ、武器を握ることを妹夫妻に否定された。故に、千尋の持ちうる武器は言葉のみである。


「千尋殿。突然の無礼を申し訳ない。だがワシは…「それ以上は言わなくていいよ」」

天下を統べる為に最後の砦である豊臣を超えねばならない。嘗て、秀吉が天下を統べる為に徳川という川を渡ったように。家康は真っ直ぐに千尋を見据えて「降伏しくれ」と告げる。その表情は苦々しかった。短く家康の言葉を絶った千尋に嫌な予感を覚えたのだろう。その感は正しい。千尋もまた武家の娘としてこの日の覚悟を決めていた。半兵衛の朋友である秀吉の居城、半兵衛と秀吉の夢の始まりで終わりであるこの場所をほかの何者にも譲る事は出来ない。それが竹中半兵衛の正妻である逢隈千尋の矜持である。

「君が…いえ、貴方が抱く夢想は嫌いではない」

だけど、と、千尋は言葉を切る。絆が世を作るという言葉を否定はしない。秀吉を失った三成はそれを綺麗事だと罵り酷く疎んだ。確かに夢想ではある。しかしそれが実現するならば世は平和になるだろうという確信が千尋にはあった。もしもそれで天下が平定されて泰安の世となるならば素晴らしいことだ。

ふと、千尋の脳裏を過ぎったのは家を繋いで行くためにと不承不承ながらも石田三成に嫁いだ唯一無二の妹の姿。それなりに仲睦まじくやっていたように思う。だからもう一人の女人として愛される道を選べばよいのに。
しかし妹はその道を選ばず未だに刀を握り奔走している。彼女が願う道もまた泰安の世である。だが同時に妹には譲れない守りたいものがあった。ただ泰安の世を待つだけではいつ失うか分からない。だから終わらせるのだと彼女はいつかに語った。その目は今の家康の目に似ていたように思う。



「だけども、それを叶える為に大阪城(ここ)を超えねばならないというなら…私は、」

私の大切なものを守るために貴方を通すわけにはいかない。

そう発した千尋の声は凛としていた。武器も持たないただの女人が天下に手を伸ばす武将を相手に武器も持たずにやり合うなんて愚かである。されども、その場を退くわけにはいかない。家康が僅かに顔を歪めるのが見えた。見知らぬ仲というわけではない。確かに半兵衛の奥方という事もあり、早々会うことも無かったが、代わりに家康は千尋の妹である彩俐と親しい仲にあった。彩俐を介して千尋という女人を知ったのだ。

聡明な女人である。そして、繊細ながらも逞しい芯を持った人物である。武将ではなくただの女人。しかしその芯は武将にも引けをとらない強き信念をその胸に秘めている。いつだったか、千尋の妹である彩俐は語った。自分よりも余程姉の方が武将らしい性格をしている、と、にが笑ったのは懐かしい思い出だ。思い出の海の中で揺れるごとに家康の中で僅かに迷いが生じる。しかし、家康とてここで引くわけにはいかない。一刻も早く天下を平定するべく進まなければならない。迷っては居られないのだ。

だから―――。


「……ならば致し方ない。無理にでも退いていただく!」

拳を振り翳すと同時に千尋が傍らに置いてあった采配を手に取った。さらりと慣らすように軽く振るわれたその采配から炎が生み出される。千代を後ろ手で背中に隠して侍女に連れ出させると、家康に采配を突き付けた。采配から発生した炎に家康は驚愕する。まさか千尋もばさら者だったとは驚きだ。その炎のばさらは千尋の心を現しているかの如く熱い。 親友と同じ瞳(め)をした千尋は怜悧な眼差しを家康に向ける。

「…所詮は争い、か」

そう言って僅かに苦笑を浮かべたのが見えた。如何に無意味であろうと、如何に虚しさだけが募る争いであろうとも、この時代においては是非も無し。人が夢を限りこの世は変わらないのかも知れない。忌避できないならば立ち向かうしか無い。頭では理解しても千尋も家康もその事実に胸を痛めた。

「ハハッ…これは参ったな。千尋殿もばさら者だったとは驚いた」

妹の風とはまた違う激しさを持った炎。その炎は容赦なく家康を取り囲む。じわり汗を滲ませるその熱風に家康は乾いた笑みを浮かべて呟いた。少しでも気を抜けばその熱風に巻き込まれてただでは済まない気がする。だがこれが千尋の覚悟という事なのだろう。今になって初めて確りと彩俐の言葉の意味を理解した。たおやかな花だと思えばこちらが足元を掬われる。これが逢隈千尋という事か―――。

「…みつ、なり…君……?」

とは言え、実戦での経験の差は大きい。一瞬の隙を突いて攻撃を仕掛ける。一度は辛うじて受身を取ったものの、第二打を受けるだけの余裕は無かった。反射的に目を瞑った。しかし覚悟した衝撃は訪れず、ゆるりと目を開けると最初に背に映ったのは白い陣羽織。家康の拳をその刀身の長い刀で危なげも無く受け止める。千尋の視界で焦がれた柔らかい白銀とは違う銀がさらりと零れた。その鈍い光を宿した鋭い眼光に自分が向けられたわけではないのにゾクリと悪寒が走った。

「…家康…貴様…っ…」

その声は静かである。しかし隠し切れない激情が、怨恨の声がそこには篭められている様に聞こえた。皆まで言わずとも三成の怒りはひしひしと伝わる。豊臣秀吉亡き後、西軍の大将として立ち上がった石田三成。謂わば、この大阪城は彼の居城でもある。それをこうも三成の不在に攻められたと在らばその憤りは半端ではないだろう。だがひとつ気に掛かった。何故、三成の傍らに彩俐が居ないのだろうか。


石田三成に嫁いだ妹ははじめは不承ながらも幸せそうであったように思う。仲も睦まじく、幼馴染という関係性があったからか、他の者に嫁ぐよりも余程、心穏やかに過ごせたのではないだろうか。嫁いだとは言っても、逢隈家の当主である為、彩俐が戦場から遠ざかるという事は無かった。しかし、今までは孤独であった戦場での彩俐の背を護る存在が出来た。否、実際の戦場では若松という彩俐の最も信頼する右腕が居た。心の拠り所という意味では三成の存在も恐らくは大きいだろう。

二人が結婚するまでに行き着いたのは千尋の夫である半兵衛の取り成しである。京都守護職の任に就くとはいえ、小さな勢力に過ぎない逢隈家と豊臣の繋がりを強固なものにする為の政略結婚だった。しかし少なからず以前から接点のあった三成を相手にと薦めたのは半兵衛なりの配慮なのかも知れないと千尋は思う。そして、三成もまた彩俐を大切にしていた。この人にならば妹を任せられると、千尋が姉として確信したのは遠い日の事だ。何より、千尋は三成を認めていた。





未だあの幸せな頃を夢見ているのかも知れない。最愛の夫が居て、最愛の妹が居て、その生涯の伴侶が共に居て。両親を亡くして悲しみに呉れた日々を払拭するように過ごしたあの幸せな日々が愛おしかった。病弱な夫は己の夢を追いかけてあまり構ってもらえなかった。だけど、いつも見ていたその背中は広く、千尋の心を安心させた。幸せな日々の中で愛娘が生まれる。いつか泰安の世が訪れた暁には親子揃って幸せに暮らせるのだと信じて止まなかった。己がそうであったように愛に育まれて温もりに包まれて。

そして――


「っ・・・!!」

霞む視界の中で驚愕に顔を歪めた三成が映った。まさか家康を庇い三成の刃に倒れるなど予想だにもしなかった事だろう。まるで親を見失った赤子のように無防備な目をして千尋を見つめる三成に千尋はフッと笑みを浮かべた。秀吉の死以来、憎しみに身を焦がし続けて来た。しかし、実際はとても純粋な男なのだ。そして、心根の優しい人間。不器用で誤解を招きやすいけれども、そんな三成だからこそ彩俐を一番大切にしてくれる。今は道を見誤っただけだ。


(どうか――・・・。)

小さく祈る

霞む視界はもはや何も映さない。次第に重みを増して閉じていく目蓋を堪えながら強く祈る。残して逝く最愛の妹と義弟の、その親しい朋友達の幸福を強く願う。もう、友と友が互いに憎み合い、殺し合わず済むように、と。嗚呼きっと泣き虫な妹はこの死を悲しむかも知れない。当主という責務に囚われて己の感情を表に出さなくなった子だけれども。本当は誰よりも純粋で己の感情に素直な子だから。だから、義弟には妹を支えてあげて欲しい。そうすればきっとあの子はまた立ち上がれる。歩き出せるから。


『・・・っもう!お姉ちゃんやめてよっ!!』
『平和になれば良いって思う。誰かの為じゃなくて私のためやけどね』
『だからその平和な世界に姉上も居て欲しい』
『お姉ちゃんが幸せに暮らせる世にするから…そしたら私も幸せになれると思う』


 だ か ら ――― 。
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