ネタ帳
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序章及び幼少期
思えばその者は凡庸且つ和やかな家に生まれた娘であった。父は足利義輝の臣下で京都を棲処とする逢隈嘉樹という男。その正妻・葛は足利家縁の者だと言う。二人の始まりはまた別の場所で語るとして二人は身分違いの末に結ばれたそうな。その二人の間には千尋と呼ばれる娘が居た。まだ3つと幼いが聡明な子供だといわれる。心根の優しい姫君で男子で無いことは残念だが誰もがその姫を愛しんで見守ったそうな。その年の霜月に葛の二人目の懐妊が知らされた。その報せを嘉樹はたいそう喜んだという。
「…男子かも知れませんね」
「凄く元気な子やから」、と、葛は穏やかに微笑んで懐妊が明確に分かる程に膨らんだその腹をそっと撫でた。執務を終えて寝所に戻った嘉樹は葛の腹部に耳を宛て新たな生命の息吹を確かめる。確かに頻繁に葛の腹を蹴っては動き回っている元気な子だと思った。男であれ女であれどちらにせよ構わないと思うが、漸く嫡男に恵まれるのであればそれは幸いである。夫妻と幼い娘は勿論、その周囲も期待を募らせた。
さらに時は流れて葉月。その子は長月に生まれると聞いたが気が早いのか葉月の初旬にこの世に生まれようと殊更活発に動きはじめた。出産の報せを聞いたのはその日の早朝であった。鳥が囀り陽が差し込み照らすその刻に生まれたのだと聞く。生まれた子供は周囲の期待を裏切り娘であった。それもとても小さな赤子であったという。予定よりも早くに産まれたからだろう。その小さな赤子を腕に抱き嘉樹は穏やかに微笑んだ。
「この子の名は彩俐で…構わないね?」
その言葉に葛は微笑んで頷いた。不満などある筈も無い。それは彩俐が誕生する前から嘉樹と考えていた名前に他ならないのだから。そして誕生したその日が決定打。葉が彩るその月に産まれた赤子が夏の葉の如く活き活きとそしてすくすく成長するように。そう願って与えられたその名を少女は後に感謝していると語った。両親から与えたられた彩俐にとって最初の宝物である。
・
・
・
彩俐の誕生から月日はまるで走り抜けるように経過した。最初は成長するのも危ういかと思われた幼子は周囲の者が手を妬く程にやんちゃな娘へと成長を遂げた。腹の中での元気も健在であるらしく邸内で侍女が声を荒げるのもしばしば耳にすることが出来た。そんな娘の成長を執務に勤しみながらひそかに喜んだという。彩俐と名づけられたその娘は人と触れ合うよりも自然や動物と触れ合う事を何よりも好んだ。人よりも優れたその感覚器官は自然と触れ合うために与えられたものではないかと思うほど、機を読むことに長ける。天性の勘の良さが発揮されるのはこれよりも後の話だ。
彩俐がその生き方を望んだ切欠は彼女が5歳を迎える頃。鍛錬に努める父の後姿を見たのが切欠だった。母も大好きであるが父親っ子であった彩俐は何かと嘉樹の背を追いかけていた。そしてはじめて見たその後姿に憧れと強い尊敬の念を抱いたのだという。普段は心優しい父が語ったその背はとても偉大だった。大好きな暖かくて大きなその背中が常に自分たちを守っている事を理解したのかは分からない。しかしその日から彩俐は父に憧れた。そして、父のような武人になりたいと願ったのである。
「無理やって。彩俐は女の子やろ?」
そう宥める様に言ったのは雛遊びをしていた彼女の姉である千尋。逢隈家の大姫として少しずつ知識と作法、そして、生きる為の術を学びはじめた千尋は聡明な娘へと成長していた。姉のその言葉に彩俐は「そんなことあらへんもん!」と子供の様に頬を膨らませて拗ねてみせる。姉と妹の差は明白であった。
元気溌剌な反面、その小柄さ故に何かと身体の弱かった彩俐にとって姉である千尋はまさに憧れの対象であった。聡明かつ文武両道、そして、優雅に着物を着こなす千尋はとても9歳には見えない。武家の娘。そして、逢隈家の大姫としての品格を既に備えているといえる。それに対して彩俐はどうか。まだ幼いとは言えど、動きにくいからと着物を着る事を嫌がり男のような袴姿で庭を駆け回る。あまつさえ、最近になって世話役の高杉若松に駄々をこねて武術を学びはじめたと小耳に挟んだ。
「おおきくなったらいろりがちちうえのせをおまもりするの!」
冗談半分にしか話を聞いてくれない姉に痺れを切らしたのか彩俐がそう言い放つ。一瞬きょとんとしたように千尋は彩俐を見つめた。昔からどこか人とはずれた感性を持つ妹だとは思っていたが、女の身でありながら父親の背中を守りたいだなんて。呆れる反面、自分は持たないその情熱をほんの少し羨ましく思った。男でも無く、ましてや長女でもない彩俐の立場は端から見れば居ても居なくても変わらない存在だと言える。良くて政略結婚の駒が増えた程度にしか思われない。
逢隈家の長女であった千尋には選択の余地は無かった。両親の為に知識を身につけ少しでも実りになる家に嫁ぐ事が幼い頃から周囲が千尋に望んだ事である。御家の為にと、本当は自分のしたかった生き方に蓋をして賢妻になるべく過ごして来た。四つ離れた妹のその自由奔放さに憧れて羨んだことは否定出来ない。だとして己もその生き方をしようかと考えて是と答えたことは無い。両親は自由に生きれば良いと妹同様に自分を自由に生きられるように育ててくれた。その両親に恩返しをと考えた時に自然と出た答えが今だ。
周囲に流されたわけでもなく、周囲の期待に添ったわけでもない。この生き方を望んだの己である。その事実が千尋の誇りだった。両親の為に、ひいてはこの逢隈家の繁栄の為に。だから残された自由な生き方は妹に任せようと思った。彩俐は真っ白だ。しかし何者にも染まらない。白でありながら己の色を確立していて、他の何にも染まらない。彼女が白で在る切欠は言わずもがな父である嘉樹の存在だろう。父という理想がそこに在る限り彩俐は曲がらないし、何者にも染まらない。そう思ったのはまだ彩俐が外の世界に触れる前の冬の日の事だった。
・
・
・
「ったぁ!」
威勢の良い掛け声と同時に彩俐は竹刀で指南役の若松に切り掛かる。以前よりもずっと竹刀に振り回されなくなったものの未だ5歳を迎えたばかりの彩俐の竹刀を受け止めるのは容易い。それを受けて横に流した。目一杯の重心を竹刀にかけていた分、横に受け流されて当然ながら彩俐の身体は横に揺らいだ。「わっ…!?」と、驚いた様に声を漏らし、こける事を覚悟したのがギュッと目を閉じた。
「…姫。だから油断召されるなと申しているでしょう」
しかし、幾ら待っても衝撃は訪れず、恐る恐る目を開けた彩俐の目に映ったのは溜息混じりに片腕で彩俐を抱きとめている若松の姿だった。彩俐と若松の年齢差は9歳差で、若松は齢14歳。間も無く元服を迎える段取りとなっている。呆れた様な若松の物言いが気に入らないのかプイッと顔を背けて彩俐は若松から離れた。
「ひめってよばんといてよ!」
そして、「ゆだんしてへんもん!」と、愚痴る。油断していなかったならば先ほどの体制を崩したのは何だと言いたいのを堪えて若松は「そうですか、失礼いたしました彩俐様」と微笑む。言葉を覚え、そして、武術を嗜む様になってから彩俐は執拗に「姫」と呼ばれる事を嫌がるようになった。その理由を聞いたところで答えは返って来ないのだが。一度、無理を推して姫呼びを続けたところ「姫にはならない!」と叱られてしまった。それ以来、癖で呼んでしまうものの彩俐様と呼ぶようになった。
彩俐が3歳の頃から傍で仕えているが歳を増すごとに彩俐は姫とは程遠い成長を遂げていると若松は考える。それが悪いとは思わないが仮にも逢隈家の姫君が男さながらのやんちゃでは如何なものかと思う。以前は少しでも女性らしくと口煩く言ったものだが結局それも撥ね付けられてしまった。とはいえ、若松にも世話役としての責務がある。激しい攻防戦の後、女人としての嗜みも身に付ける事を条件に今は武術の指南役も担っている。始めた頃は自分よりも丈の長い竹刀に振り回されることが殆どだった。が、次第にそれに慣れて思い通りに振り回せる段階にまで至った。とは言え、若松からすればまだまだ隙だらけだ。しかし驚いたことをひとつ挙げるならば彼女の運動神経だろう。天性の素質なのか彩俐はとても勘が良い。
「ちちうえ!」
汗を拭いながら再び竹刀を構えようとした彩俐が不意に弾かれたように顔を上げた。満面の笑みを浮かべて縁側の柱に背を凭れながら若松と彩俐の様子を見ていた嘉樹に気付いたらしく声をあげる。先ほどまでの真剣なまなざしはどこへと失せたのか今では父親を慕う少女の顔だ。駆け寄った彩俐の頭をくしゃりと掻き撫でると顔を綻ばせながらはにかんだように笑った。
「今日も鍛錬か?頑張ってるな」
きらきらと目を輝かせて嘉樹を見つめる娘に言葉を投げかける。そして恭しく頭を下げる若松に「若松もご苦労様」と労わりの言葉を投げかける。そして頭を上げるように促した。その言葉に甘えて若松は顔を上げた。娘の両脇に腕を差し込み抱き上げて目線を合わせる。大好きな父との触れ合いに彩俐は嬉しそうに目を細めて楽しげな声で笑った。
父に問われた「鍛練は楽しいか?」という言葉に彩俐は一瞬目を丸くする。何も楽しいことばかりではないし少なからずかすり傷を負って痛い目を見たことだってしばしばある。楽しいかと聞かれて素直に是と答えられるような代物ではない。しかし、彩俐は嘉樹のその問いにへらりと笑って肯いた。痛い事も苦しい事もたくさんあるが、己の成長という形で必ず結果が返って来る。いつか父に追いつくのだと息まく彩俐にとってはそれが嬉しくてならなかった。嬉しそうにそう答えた娘に「そうか」と穏やかに笑った嘉樹は再び彩俐に訪ねた。
「そろそろ外の世界を見てみるか?」
・・・と。その言葉の意味を当時の彩俐はまだ正しく把握し切れなかった。父の言う「外の世界」が何であるかを疑問に思ったのか「…そと?」と小首を傾げて彩俐にそうだとこくりと肯いて答える。確かに彩俐はまだ5歳と外に出すには幼すぎる年頃。彩俐が否定するならば仕方が無いだろう。しかし、時間が無いこともまた事実であった。この京に不穏な空気が漂っている。幼い娘にそれを見せるのはまだ偲びない思いがあった。
「そう…外だ。この日の本は限りなく広い」
それを見て来る事に損は無いだろう。一瞬不安げな表情を浮かべた娘を宥める様にその言葉を紡いで嘉樹は言った。視線の片隅で若松が気取った。逢隈の家臣の中では若いながらも一際目を引く優れた子供だと思い、そして、そんな若松だからこそ彩俐の世話係を任せたが間違っていなかった。本当に聡明な子供だと嘉樹は感心する。
この室町幕府の将軍である足利義輝を良しと思わないものが居る事は以前から分かっていた。しかし、万が一が起こらない為に嘉樹をはじめとした臣下達は注意を払って来たがここ最近どうにもきな臭さが拭えない。おそらく近いうちにひと波乱あるのは確かだろう。そしてもしもその波乱が起これば何かと足利家に縁のある逢隈家は必ず巻き込まれる。親心で語るならばまだこの幼い娘にはそういう事柄に巻き込まれて欲しく無い。その思いもあって嘉樹は以前から親交のあった近江の観音寺に幼い娘を預ける決断をしたのだ。
今まで邸内で花よ蝶とと育てられていた彩俐がこれを機に真の見聞を広げてくれたならば幸いだと思う。彩俐が父を追って武人になるというならばそれもまた良いだろう。だとして広い知識は勿論、外の世界で色々と学ぶべきであるのも確かだ。嘉樹は困ったように視線をあっちに漂わせこっちに漂わせしている娘に視線を向けた。ちらりと目が合った彩俐はどうこたえて良いか分からないのか困った顔をしている。昔から思っていたがこの娘は見ている方が驚くほど簡単に表情が表に出る。恐らく外に出る事が怖いわけではない。昔から並々ならぬ好奇心を発揮した娘だ。外の世界に興味はあるだろう。だがその反面、甘えたである彩俐は両親や家族と離れる事を躊躇っている。
「もう会えないというわけじゃない。時間はまだあるから自分で考えなさい」
そんな娘の背をせめてもの気持ちで押してやる。その言葉にきょとんとした顔をして彩俐は嘉樹を見つめた。自分と同じ父の深い漆黒の双眸。同じでありながら異なるように感じたのはその父の瞳の深さゆえだろう。それを彩俐は酷く綺麗だと思う。何故そうも深い輝きを放つのか分からない。だがぼんやりと考える。その瞳の醸し出す光の切欠が父の言う「外の世界を見る事」であるならば。そして、本当に「もう会えない」わけではないのだらば。
「ちちうえ!いろりね…」
話はこれで終いだと踵を返そうとした嘉樹の服の裾を掴んだ。それを察して嘉樹は足を止めて彩俐に視線を向ける。娘は俯いていた。まだ完全に躊躇いは拭えない。さりとて、己の中で何かを決めたのだろう。たどたどしい口調。しかし、何かを決意したように嘉樹を見上げた娘の顔はその幼さに似合わない凛とした光を漂わせていた。そして口を開く。
いろりね――そとのせかい、みてみたいです!
「…男子かも知れませんね」
「凄く元気な子やから」、と、葛は穏やかに微笑んで懐妊が明確に分かる程に膨らんだその腹をそっと撫でた。執務を終えて寝所に戻った嘉樹は葛の腹部に耳を宛て新たな生命の息吹を確かめる。確かに頻繁に葛の腹を蹴っては動き回っている元気な子だと思った。男であれ女であれどちらにせよ構わないと思うが、漸く嫡男に恵まれるのであればそれは幸いである。夫妻と幼い娘は勿論、その周囲も期待を募らせた。
さらに時は流れて葉月。その子は長月に生まれると聞いたが気が早いのか葉月の初旬にこの世に生まれようと殊更活発に動きはじめた。出産の報せを聞いたのはその日の早朝であった。鳥が囀り陽が差し込み照らすその刻に生まれたのだと聞く。生まれた子供は周囲の期待を裏切り娘であった。それもとても小さな赤子であったという。予定よりも早くに産まれたからだろう。その小さな赤子を腕に抱き嘉樹は穏やかに微笑んだ。
「この子の名は彩俐で…構わないね?」
その言葉に葛は微笑んで頷いた。不満などある筈も無い。それは彩俐が誕生する前から嘉樹と考えていた名前に他ならないのだから。そして誕生したその日が決定打。葉が彩るその月に産まれた赤子が夏の葉の如く活き活きとそしてすくすく成長するように。そう願って与えられたその名を少女は後に感謝していると語った。両親から与えたられた彩俐にとって最初の宝物である。
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彩俐の誕生から月日はまるで走り抜けるように経過した。最初は成長するのも危ういかと思われた幼子は周囲の者が手を妬く程にやんちゃな娘へと成長を遂げた。腹の中での元気も健在であるらしく邸内で侍女が声を荒げるのもしばしば耳にすることが出来た。そんな娘の成長を執務に勤しみながらひそかに喜んだという。彩俐と名づけられたその娘は人と触れ合うよりも自然や動物と触れ合う事を何よりも好んだ。人よりも優れたその感覚器官は自然と触れ合うために与えられたものではないかと思うほど、機を読むことに長ける。天性の勘の良さが発揮されるのはこれよりも後の話だ。
彩俐がその生き方を望んだ切欠は彼女が5歳を迎える頃。鍛錬に努める父の後姿を見たのが切欠だった。母も大好きであるが父親っ子であった彩俐は何かと嘉樹の背を追いかけていた。そしてはじめて見たその後姿に憧れと強い尊敬の念を抱いたのだという。普段は心優しい父が語ったその背はとても偉大だった。大好きな暖かくて大きなその背中が常に自分たちを守っている事を理解したのかは分からない。しかしその日から彩俐は父に憧れた。そして、父のような武人になりたいと願ったのである。
「無理やって。彩俐は女の子やろ?」
そう宥める様に言ったのは雛遊びをしていた彼女の姉である千尋。逢隈家の大姫として少しずつ知識と作法、そして、生きる為の術を学びはじめた千尋は聡明な娘へと成長していた。姉のその言葉に彩俐は「そんなことあらへんもん!」と子供の様に頬を膨らませて拗ねてみせる。姉と妹の差は明白であった。
元気溌剌な反面、その小柄さ故に何かと身体の弱かった彩俐にとって姉である千尋はまさに憧れの対象であった。聡明かつ文武両道、そして、優雅に着物を着こなす千尋はとても9歳には見えない。武家の娘。そして、逢隈家の大姫としての品格を既に備えているといえる。それに対して彩俐はどうか。まだ幼いとは言えど、動きにくいからと着物を着る事を嫌がり男のような袴姿で庭を駆け回る。あまつさえ、最近になって世話役の高杉若松に駄々をこねて武術を学びはじめたと小耳に挟んだ。
「おおきくなったらいろりがちちうえのせをおまもりするの!」
冗談半分にしか話を聞いてくれない姉に痺れを切らしたのか彩俐がそう言い放つ。一瞬きょとんとしたように千尋は彩俐を見つめた。昔からどこか人とはずれた感性を持つ妹だとは思っていたが、女の身でありながら父親の背中を守りたいだなんて。呆れる反面、自分は持たないその情熱をほんの少し羨ましく思った。男でも無く、ましてや長女でもない彩俐の立場は端から見れば居ても居なくても変わらない存在だと言える。良くて政略結婚の駒が増えた程度にしか思われない。
逢隈家の長女であった千尋には選択の余地は無かった。両親の為に知識を身につけ少しでも実りになる家に嫁ぐ事が幼い頃から周囲が千尋に望んだ事である。御家の為にと、本当は自分のしたかった生き方に蓋をして賢妻になるべく過ごして来た。四つ離れた妹のその自由奔放さに憧れて羨んだことは否定出来ない。だとして己もその生き方をしようかと考えて是と答えたことは無い。両親は自由に生きれば良いと妹同様に自分を自由に生きられるように育ててくれた。その両親に恩返しをと考えた時に自然と出た答えが今だ。
周囲に流されたわけでもなく、周囲の期待に添ったわけでもない。この生き方を望んだの己である。その事実が千尋の誇りだった。両親の為に、ひいてはこの逢隈家の繁栄の為に。だから残された自由な生き方は妹に任せようと思った。彩俐は真っ白だ。しかし何者にも染まらない。白でありながら己の色を確立していて、他の何にも染まらない。彼女が白で在る切欠は言わずもがな父である嘉樹の存在だろう。父という理想がそこに在る限り彩俐は曲がらないし、何者にも染まらない。そう思ったのはまだ彩俐が外の世界に触れる前の冬の日の事だった。
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威勢の良い掛け声と同時に彩俐は竹刀で指南役の若松に切り掛かる。以前よりもずっと竹刀に振り回されなくなったものの未だ5歳を迎えたばかりの彩俐の竹刀を受け止めるのは容易い。それを受けて横に流した。目一杯の重心を竹刀にかけていた分、横に受け流されて当然ながら彩俐の身体は横に揺らいだ。「わっ…!?」と、驚いた様に声を漏らし、こける事を覚悟したのがギュッと目を閉じた。
「…姫。だから油断召されるなと申しているでしょう」
しかし、幾ら待っても衝撃は訪れず、恐る恐る目を開けた彩俐の目に映ったのは溜息混じりに片腕で彩俐を抱きとめている若松の姿だった。彩俐と若松の年齢差は9歳差で、若松は齢14歳。間も無く元服を迎える段取りとなっている。呆れた様な若松の物言いが気に入らないのかプイッと顔を背けて彩俐は若松から離れた。
「ひめってよばんといてよ!」
そして、「ゆだんしてへんもん!」と、愚痴る。油断していなかったならば先ほどの体制を崩したのは何だと言いたいのを堪えて若松は「そうですか、失礼いたしました彩俐様」と微笑む。言葉を覚え、そして、武術を嗜む様になってから彩俐は執拗に「姫」と呼ばれる事を嫌がるようになった。その理由を聞いたところで答えは返って来ないのだが。一度、無理を推して姫呼びを続けたところ「姫にはならない!」と叱られてしまった。それ以来、癖で呼んでしまうものの彩俐様と呼ぶようになった。
彩俐が3歳の頃から傍で仕えているが歳を増すごとに彩俐は姫とは程遠い成長を遂げていると若松は考える。それが悪いとは思わないが仮にも逢隈家の姫君が男さながらのやんちゃでは如何なものかと思う。以前は少しでも女性らしくと口煩く言ったものだが結局それも撥ね付けられてしまった。とはいえ、若松にも世話役としての責務がある。激しい攻防戦の後、女人としての嗜みも身に付ける事を条件に今は武術の指南役も担っている。始めた頃は自分よりも丈の長い竹刀に振り回されることが殆どだった。が、次第にそれに慣れて思い通りに振り回せる段階にまで至った。とは言え、若松からすればまだまだ隙だらけだ。しかし驚いたことをひとつ挙げるならば彼女の運動神経だろう。天性の素質なのか彩俐はとても勘が良い。
「ちちうえ!」
汗を拭いながら再び竹刀を構えようとした彩俐が不意に弾かれたように顔を上げた。満面の笑みを浮かべて縁側の柱に背を凭れながら若松と彩俐の様子を見ていた嘉樹に気付いたらしく声をあげる。先ほどまでの真剣なまなざしはどこへと失せたのか今では父親を慕う少女の顔だ。駆け寄った彩俐の頭をくしゃりと掻き撫でると顔を綻ばせながらはにかんだように笑った。
「今日も鍛錬か?頑張ってるな」
きらきらと目を輝かせて嘉樹を見つめる娘に言葉を投げかける。そして恭しく頭を下げる若松に「若松もご苦労様」と労わりの言葉を投げかける。そして頭を上げるように促した。その言葉に甘えて若松は顔を上げた。娘の両脇に腕を差し込み抱き上げて目線を合わせる。大好きな父との触れ合いに彩俐は嬉しそうに目を細めて楽しげな声で笑った。
父に問われた「鍛練は楽しいか?」という言葉に彩俐は一瞬目を丸くする。何も楽しいことばかりではないし少なからずかすり傷を負って痛い目を見たことだってしばしばある。楽しいかと聞かれて素直に是と答えられるような代物ではない。しかし、彩俐は嘉樹のその問いにへらりと笑って肯いた。痛い事も苦しい事もたくさんあるが、己の成長という形で必ず結果が返って来る。いつか父に追いつくのだと息まく彩俐にとってはそれが嬉しくてならなかった。嬉しそうにそう答えた娘に「そうか」と穏やかに笑った嘉樹は再び彩俐に訪ねた。
「そろそろ外の世界を見てみるか?」
・・・と。その言葉の意味を当時の彩俐はまだ正しく把握し切れなかった。父の言う「外の世界」が何であるかを疑問に思ったのか「…そと?」と小首を傾げて彩俐にそうだとこくりと肯いて答える。確かに彩俐はまだ5歳と外に出すには幼すぎる年頃。彩俐が否定するならば仕方が無いだろう。しかし、時間が無いこともまた事実であった。この京に不穏な空気が漂っている。幼い娘にそれを見せるのはまだ偲びない思いがあった。
「そう…外だ。この日の本は限りなく広い」
それを見て来る事に損は無いだろう。一瞬不安げな表情を浮かべた娘を宥める様にその言葉を紡いで嘉樹は言った。視線の片隅で若松が気取った。逢隈の家臣の中では若いながらも一際目を引く優れた子供だと思い、そして、そんな若松だからこそ彩俐の世話係を任せたが間違っていなかった。本当に聡明な子供だと嘉樹は感心する。
この室町幕府の将軍である足利義輝を良しと思わないものが居る事は以前から分かっていた。しかし、万が一が起こらない為に嘉樹をはじめとした臣下達は注意を払って来たがここ最近どうにもきな臭さが拭えない。おそらく近いうちにひと波乱あるのは確かだろう。そしてもしもその波乱が起これば何かと足利家に縁のある逢隈家は必ず巻き込まれる。親心で語るならばまだこの幼い娘にはそういう事柄に巻き込まれて欲しく無い。その思いもあって嘉樹は以前から親交のあった近江の観音寺に幼い娘を預ける決断をしたのだ。
今まで邸内で花よ蝶とと育てられていた彩俐がこれを機に真の見聞を広げてくれたならば幸いだと思う。彩俐が父を追って武人になるというならばそれもまた良いだろう。だとして広い知識は勿論、外の世界で色々と学ぶべきであるのも確かだ。嘉樹は困ったように視線をあっちに漂わせこっちに漂わせしている娘に視線を向けた。ちらりと目が合った彩俐はどうこたえて良いか分からないのか困った顔をしている。昔から思っていたがこの娘は見ている方が驚くほど簡単に表情が表に出る。恐らく外に出る事が怖いわけではない。昔から並々ならぬ好奇心を発揮した娘だ。外の世界に興味はあるだろう。だがその反面、甘えたである彩俐は両親や家族と離れる事を躊躇っている。
「もう会えないというわけじゃない。時間はまだあるから自分で考えなさい」
そんな娘の背をせめてもの気持ちで押してやる。その言葉にきょとんとした顔をして彩俐は嘉樹を見つめた。自分と同じ父の深い漆黒の双眸。同じでありながら異なるように感じたのはその父の瞳の深さゆえだろう。それを彩俐は酷く綺麗だと思う。何故そうも深い輝きを放つのか分からない。だがぼんやりと考える。その瞳の醸し出す光の切欠が父の言う「外の世界を見る事」であるならば。そして、本当に「もう会えない」わけではないのだらば。
「ちちうえ!いろりね…」
話はこれで終いだと踵を返そうとした嘉樹の服の裾を掴んだ。それを察して嘉樹は足を止めて彩俐に視線を向ける。娘は俯いていた。まだ完全に躊躇いは拭えない。さりとて、己の中で何かを決めたのだろう。たどたどしい口調。しかし、何かを決意したように嘉樹を見上げた娘の顔はその幼さに似合わない凛とした光を漂わせていた。そして口を開く。
いろりね――そとのせかい、みてみたいです!
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