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WWWの本編・連作です。
過去編の一部分に該当する話ですのでネタバレ注意。
中編3つ分の物語で、その一つ目。
『 彩俐 っ!!』
――最後に聞いたのは、誰かの呼ぶ声だった・・・・・気がする。
ここはどこなんだろう?周囲を見渡してみても、参考になりそうなものが見当たらない。そして夜が訪れる。
夜風を凌ごうと身体を丸くした。(・・・さむい)。が、容赦なく体温を奪って震えが止まない。膝に顔を埋めた。
どれだけの時間をそうしていたのかは分からない。ただ、どうする事も出来ずにそこで震えているしかない。
(・・・・・かえりたい)
ただ そう想った
だがまるでそれを嘲笑うように不意に自分の中で欠落しているものがあることに気付いた。誰なのだろう。
声の主が、ではない。確かにそれも分からないけど。だがそれ以上に不明瞭だったのは自分自身だった。
自分が何者なのか分からない。帰りたいと願ったところでどこに帰れば良いかも分からない。それに、だ。
あるのだろうか――宛てなんて。
震えが止まない。どうすれば良いのか分からない。どこに帰れば良いのかも分からない。もうお手上げだ。
帰りたい。強く願ってみてもその場所が浮かばないのだからどうしようもない。どこに帰れば良いのだろう。
そもそも帰る場所なんて存在するのだろうか。考えれば考えるほど心が枯れていく。ぎしり胸の奥が軋む。
「・・・ぃ・・・・おい!」
ぼんやりとした思考の中で不意に声が鼓膜を揺らした。緩慢な動きで顔を持ち上げるとそこに誰かが居た。
気遣う風にこちらを覗き込んでいたのは藍色の髪の長い男。この人は誰だろう。一体、何の用があるのか。
「・・・・・だ、れ・・・?」
暫らく飲み食いもせず、喋ることもなかったせいなのか、いざ言葉を発すると情けないくらいに掠れていた。
自分のことも分からない輩が他人に名前を問うなんてちゃんちゃらおかしな話だ。男は困惑顔で閉口する。
「・・・・・私は、ユリウス=モンレーだ」
だが男は一拍置いて答えた。そして「おまえは?」と、尋ねられる。そう問われて今度はこちらが黙る番だ。
名前を尋ねられても答えられる名前が浮かばない。何か言わねばと口を開けるが、何も出ずに口を閉じる。
見知らぬ子供に名前を尋ねたら返答が「わからない」なんて困るに決まってる。それに厄介だと思うだろう。
言葉に詰まる。拾って欲しいなんて贅沢な事は言わない。だけどもう少しだけ誰かと一緒に居たいと思う。
独りは寂しいから嫌だ。ユリウス、と、名乗った彼に目を向ける。馬鹿みたいに縋るような目を向けるだけ。
「・・・わかんない・・・かえりたい・・・」
無理矢理に口を開けばぽつりぽつりと出て来るのは卑屈な言葉ばかり。困らせるだけと分かってるのに。
でも、止まらない。そしてまた突っ伏す様に膝に顔を埋めた。帰りたい。それ以外に何も望まない。だから。
だから――・・・・・
気配でユリウスが困惑しているだろうことは分かった。会話が成立しないこともだが、きっと対応には困る。
自覚はあった。こんな風な態度を取られても対応する側は困惑するし、正直にいえば面倒に違いない筈。
知らない人に迷惑を掛けていることは申し訳ない。それでも離れていかない彼に罪悪感も覚えはするけど。
「ユリウス!」
不意に第三者の声が響く。次いで「何やってるんだ?」と、不思議そうな声。酷く緩慢な動作で顔を上げる。
「・・・エース」と、困ったようにユリウスが目を向けて呟いたものだから、少年の名がエースなのだと知った。
「いや、その・・・・・」
ユリウスは言葉を詰まらせながらエースに視線を向けた。聞かれても困る。彼の困惑は尤もな事だと思う。
何しているのか説明しようにも、こちらと会話が成立していないのだから答えようがない。ぼんやり眺める。
しどろもどろしているユリウスに対してどこか呆れた風にエースが溜息を漏らした。大の大人が情けない。
場の雰囲気とユリウスの様子を見ていたら何となくだが察しは付く。相変わらずというか、人が良過ぎだ。
子供が好きという性分でもない癖に、でも放っておけないとか。しかも一度では飽き足らず二度目ときた。
(・・・いいな)
うらやましい
エースと呼ばれた少年とユリウスを交互に見ながら思った。妬みまではいかないが、心底そう感じたのだ。
だって一人では無いから。ちゃんと帰る場所が用意されているのだから。それがとても羨ましい。帰りたい。
そんな場所が自分も用意されているというなら。帰ることを許される場所が自分も欲しい。ひとりは寂しい。
「また拾ったの?あ、拾おうとしていた、か」
「・・・ユリウスって、ほんと好きだよな」。エースはユリウスと少女を交互に眺めた後、小さく溜息を漏らした。
そしてやれやれとばかりにその言葉を紡いだ。日用雑貨の入った紙袋を片手にかつかつと少女に近付く。
そして目線を合わせる様に屈んだ。見たところ年端もいかない。確かに放って行くには気が引けるだろう。
「エース!」
紅い双眸と目が合った瞬間、反射的にビクッと小さく肩を揺らして身を竦めた。次いで、鋭いユリウスの声。
宥めるというより得体の知れないものに無警戒で近付いて行くエースを咎めたと言った方が正しいだろう。
その声を気に留めることなく「大丈夫だって」と、答えて、少女が怖がらない距離を保ちゆっくりと口を開く。
「・・・名前は?」
間近で見て思ったが多分エースは年が近い。首を傾げるその仕種にまだあどけなさを感じた。優しい人だ。
でも、返せる言葉は限られる。「・・・・・わからない、です」、と羽音の声。その言葉にエースが動きを止めた。
ユリウスの溜息が聞こえた。(・・・なるほど、ユリウスが困っていたのはこういうことか)。内心、少し舌打つ。
エースはちらりと視線を目の前の少女に向けた。どう見ても危険には思えない。見たところ普通の女の子。
烏の濡れ羽色の髪を高い位置で一つに結い、ズボンまで履いて男みたいな恰好をしたおかしな子だった。
――あまつさえ、自分の名前が分からないときた。
「君、おかしいんじゃない?」
取り繕うことをしない子供の言葉はストレートだ。言葉に少女は否定も出来ずに肩を竦め苦笑を浮かべる。
「ユリウス!この子、病院に連れてった方がいいぜ」と、追い打ち。確かに名前が分からないのは重症だ。
だけど、何もそこまで言わなくても良いのに。こっちだって別に好きで記憶喪失になったわけじゃないのに。
「エース!言葉は選べ」
「お前もいつまで座り込んでるつもりなんだ」。反論したくとも事実を言われては反論の仕様もなくて俯いた。
その姿に見兼ねてユリウスがエースを諌めた。しかし、いつまでウジウジとしている少女に苛立ったらしい。
そう言い放った。少し厳しいような物言いに小さく肩を揺らす。が、確かにユリウスの言葉はもっともだった。
「ほら」と、先程までの言葉とは裏腹に手を差し伸べられる。掴んで良いのか悩んだが少し考えて掴んだ。
「ありがとう・・・ございます」
小さく礼を告げ立ち上がろうとした。崖から落ちた拍子に捻ったらしい足が少し痛んで思わず眉を顰めた。
「君、怪我してるの?」と、目聡くそれに気付いたエースが少し気遣うように尋ねた。思わず視線を逸らす。
それにつられてこちらを向いたユリウスに何となく隠し切れない雰囲気を感じたが、あまり言いたくは無い。
この足で歩くのは少しきついかも知れないという予感はある。あの高さから落ちてコレで済んだら幸いだ。
が、そもそもどうして崖から落下するような事態に陥ったのだろう。しかも、気付いたら崖なんて無かった。
自分の名前も思い出せない曖昧な記憶を頼りに出来ない。なにか別の出来事に巻き込まれたのだろうか。
(・・・どちらにせよ、厄介やけど)
内心 溜息
現状、割と絶望的であることに変わりない。路地裏に流れ着くまでのことを思い返してみて少し後悔した。
誰もこちらに目を向けることは無かったし、酷い時なんて荒事に巻き込まれそうになったことだってあった。
どうにか切り抜けることが出来たのは良かったが結果的に身動きが取れない位に悪化する羽目になった。
無視ならまだ良かったのに、通りすがりの人々がまるでゴミ屑を見る様な目を向けられた時はきつかった。
「病院くらいまでなら連れて行ってやる・・・来い」
呆れた様な溜息が聞こえて来て、ユリウスに視線を向けると地面に片膝を付いた体制のままでそう言った。
声を掛けてしまった手前、放置というわけにいかなくなったのだと思う。優しい人だと思った。否、お人好し。
でも、酷い人だと思う。
確かに、ユリウスがこれ以上の施しを与える義理なんて無い。病院に連れていくことだけでも十分なのだ。
それに対して感謝して礼を言うことが正しいことなのだ。だけど手を離せばまたひとりぼっちになってしまう。
相反する感情がせめぎ合う。大人になれと囁く声と、傍に居てと願う子供の声が交錯して、答えが出ない。
「・・・・・」
ユリウスの背中に身を委ねる事も出来ず、無言で僅かに俯き唇を噛み締める。まだ、誰かの傍に居たい。
一向に背中に重みが無い事を不審に思ったのかユリウスがこちらを見た気配がする。「おい」と、呼ぶ声。
答えたくない。否、言葉にしたら声が震えてしまいそうな気がした。治療したところでひとりに変わりはない。
「・・・・・病院に行きたくないのか?」
沈黙という抵抗を受けたら流石に気付くだろう。ユリウスは理解できないと言わんばかりの口調で尋ねた。
エースの問いに対し誤魔化そうとしたみたいだが、立ち上がっても壁を支えにしなければキツイのだろう。
見ている限りでそれは十分分かったが、目の前の少女はそれでも医者に行く事を断固として拒む姿勢だ。
少女とユリウスを眺めながらエースの脳裏にある考えが浮かぶ。それが事実かどうかまでは分からない。
そもそもエースが知る必要のないことだ。が、現時点で分かっている事柄から推測するに少女はおそらく。
「ひとりになるのが怖いんだろ」
少しも躊躇わずに、はっきりとそう口にすればバッと弾かれた様に少女が顔を上げた。物言いたげな表情。
口を開こうとするが、言葉にはせず最終的には閉じてしまった。少ないやり取りだが、多分それが答えだ。
(・・・・・やっぱり)
溜息
少女がどういう境遇にあったのかは知らないが、ユリウスが声を掛けたことは奇跡にも近かったのだろう。
ほんの短時間だが誰かと言葉を交わす機会が出来て離れ難い。記憶喪失だというから縋る相手も無い。
そんな時に差し伸べられた手はきっと光明に見えたと思う。ふと、自分が養い親に出会った時を思い出す。
だから、だ。
ユリウスが少女にかまっている姿を見て、不安に塗れた表情でユリウスを見上げる少女を見て、重なった。
この子はユリウスと出会った当初の自分なのだ、と。こんなに弱くないしビクビクもしていなかったけれど。
それでも見知らぬ場所に放り出されたら不安になるのは事実だ。世界にとって自分は不必要なのだ、と。
「・・・・・図々しいってわかってる」
ぽつりと呟く。壁を頼りにもう一度、座り込むように身体を降ろした。ユリウスが何か物言いたげに口を開く。
なるべく足に負担を掛けない様に膝を畳んで正座する。足首だったのが幸いだ。そして、地面に手を付く。
「!!」。何をしようとしたか、流石にユリウスも察したのだろう。だけども、それより先に額を地面に付けた。
土下座だ。情けないなんて感情が無かったとは言わない。悔しいよ。でも、これを逃したら駄目だと思った。
長い時間、ずっと此処に居てたくさんの人が通り過ぎた。だけど声を掛けてくれたのはユリウスだけだった。
「私を・・・拾ってください」
声の限りで訴える。犬や猫ではあるまいし、拾うなんて表現はナンセンスだ。だがそれ以外に浮かばない。
運良く人の往来も今は無い。見捨てようと思えばそれも可能だ。その言葉にユリウスは言葉を詰まらせる。
既に自分は子供を一人養っている。リスクを背負っていた事は否定しない。が、その養い子は既に選んだ。
ちらりと隣で少女を見つめる養い子に目を向けた。この世界に残る事を選んだ時点でエースはこちら側だ。
それに引きかえて目の前の少女はまだそうではない。余所者だということは見て取れる。まだ、余所者だ。
「・・・・・」
幼子に土下座をされるのは居心地が悪い。かと言って、はい分かった、と言えるような軽い問題ではない。
不意に隣で動く気配がした。「っ・・・エース!」。反射的に一喝して、養い子の凶行を止める。剣は寸止め。
「・・・君、ユリウスに迷惑を掛ける気?」
冷やかに向けられた紅い双眸と、首筋にひたりと当たった刃の感触にぞくりと悪寒が走る。息が詰まった。
ユリウスの制止に辛うじて従ったようだが、剣を降ろそうとはしない。感情の篭らない声に彼の不快を知る。
確かに身勝手な言動をしていると自分でも理解している。だがこちらの事情を考えれば退く事は出来ない。
「・・・図々しいってわかってるって言ってるやろ」
怖くない、わけではない。むしろ震えそうなくらい怖い。何で自分が剣を突き付けられないといけないんだ。
何もしてないのに。否、身勝手な発言をしてはいる。だけど、そうしなければ先が無いと分かっているから。
でなければ、会ったばかりの相手に対して土下座なんて絶対にしない。威圧的な言葉に少しカチンときた。
「決めるのはそっちの人ちゃうの?」と、すぐ感情的になるのはいけない癖だ。口を突いて言ってしまった。
今度こそ不快を隠そうともせずエースは目を細めて少女を見下した。一瞬でも同情した事を心底後悔した。
「剣を降ろせエース」と、口を開こうとしたエースを遮りユリウスが言う。「でもユリウス!」と、反論仕掛けた。
が、
「・・・お前もエースを煽るな。後、それも止せ」
少し不穏な子供同士の口論に過ぎない。否、口論というより低俗な喧嘩。溜息混じりにユリウスが言った。
それが指すことが土下座だという事は理解した。確かに幼い子供に土下座をされたら良い気はしない筈。
だが止めろと言われたところでその先の確証が無いのに出来ない。否、続けてもその保証は無いけれど。
「・・・・・」
相手から言質を取るまでは動かない。我ながらとんだクソガキだと思った。でも、だって。他に方法が無い。
もしも他に方法があるというなら最初からそれを選んでいる。ジッとユリウスの反応を伺うように見つめた。
「・・・かわいくない奴」と、その態度さえも癪に障るのかエースが呟く。(・・・確かに)と、ユリウスも同意する。
と言うより、頑固だ。
こちらを見上げる少女は強がっている様だがそれが虚勢であることは明白。漆黒の双眸が不安に揺れる。
捨てられた猫のような目をしていた。本当は不安なのだろう。が、必死にそれを押し隠して平静を取り繕う。
今だってギリギリのところで自分を留めているのだろう。所詮は子供なのだから縋れば良いものを頑固だ。
(・・・撤回する。ぜんぜん優しくない、こいつ)
反論はしない
しない、が、先程の呟きはしっかり聞こえた。否、敢えて聞かせたのだろう。どこまでも厭な奴だと思った。
可愛く無くて結構。それが何かの得になるというなら話は別だが、現状を考えてみれば到底そう思えない。
好カードと呼べない代物に今は価値を見出す余裕は無い。ユリウスの答えが出るのをただひたすら待つ。
――流れる時間が永遠にすら感じた。
ユリウスは無言で未だに体制を変える事無く頭を下げる少女を見下ろした。隣でムスッとしているエース。
どうしてこんな事になったのかと、頭痛を覚えずには居られなかった。筋金入りの頑固者。素直では無い。
否、ある意味で素直なのかも知れない。エースに対する挑発の言葉を顧みれば自身の心に素直だと知る。
が、
意固地だ。何をそこまで意地を張るのかと考えると、恐らく先程のエースとの口論に一因があるのだろう。
まだ幼い少女が剣を突き付けられて恐怖心を抱かない筈がない。平静を保とうとしているようだが難しい。
だとして動揺を表に出すまいと頑なに振る舞っている。地面に付いた手の指先が微かに震えているのに。
縋ってしまいたい想いはあった筈だ。が、恐らくは切欠を見失った。故に意地を貫くしか無くなったのだろう。
(・・・不器用、か)
溜息
それも、筋金入りだ。頑固な上に不器用で意地っ張り。とんだ貧乏くじを連発して引いたものだと呆れた。
いつまで経っても答えないユリウスに少女から少しずつ余裕が失せる。どこか泣きそうな表情をしていた。
「・・・好きにしろ」
顔を背けて短く吐き捨て、踵を返した。その言葉に耳を疑った。それは、どのように解釈すれば良いのか。
下手な期待はしたくない。ユリウスを視線で追いながらエースが溜息を零す。そして呆れた声で漏らした。
「・・・お人好し」と、一言。まだ納得いかないのか、不貞腐れた表情をしながらユリウスの後を追い掛ける。
その一言で確信を得た。胸がカッと熱くなって何かが込み上がって来る。込み上がるものを必死に堪えた。
そして立ち上がろうとする。痛めた足に激痛が走ったがそんな事どうでも良い。あの背中を追わなければ。
「・・・・・」
生まれたての子牛だってもう少しマシに立てるだろう。カタカタと震える膝を叱咤して、引き摺りながら進む。
振り返ろうともしない男と、傍らを暢気に歩く少年の背中しか見えない。その後ろ姿を必死に追い掛けた。
――あれがいい。
玩具を欲しがる子供みたいだと思った。だが、目の前にあるものだけが欲しいと思った。そこに行きたい。
気付いた時は一人だった。ひとりぼっちで、誰も居ない。通り過ぎる者は皆、こちらに見向きもしなかった。
偶に向けられたのはゴミ屑を見るような目で、それから逃れるように膝を抱えて時が経つのを待ち続けた。
いくら経っても待ち人は来ない。否、そもそも、そんな存在が居るのかさえ怪しい。正直、誰でも良かった。
誰でも良いから傍に居て欲しい。存在しても良い場所が欲しい。誰でも良いから、温もりに触れたかった。
触れて、抱き付いて――・・・
「付いて来るならさっさと来いよ」
「トロ過ぎ」と、容赦の欠片も無い言葉に我に返る。顔を上げると、そこにはエースが呆れた顔をして居た。
それより少し離れた場所をユリウスが歩いている。相変わらず振り返ろうともしない。「ほら」と、促される。
視線をエースに戻せばこちらに背中を向けて屈んでいた。どういう状況か把握出来なくて硬直してしまった。
「・・・・・なんで?」
口を突いて出たのはその言葉。気持ちの上では進みたかったが、どうしても足の痛みに負けて動けない。
足を止めてしまった自分を、どうしてエースが迎えに戻ったのだろう。まるで理解出来なくて困惑してしまう。
「ユリウスを待たせるとかあり得ないぜ」
「ほら早く」と、僅かに苛立った口調で促される。だがユリウスは少しも待ってくれる兆しは無かったと思う。
高圧的な物言いに少なからず腹が立つ。しかし、それ以上に今は向けられた背中が恋しく感じてしまった。
躊躇う気持ちはあったが身体は素直なもので、無意識におそるおそる首に腕を回してそっと体重を掛けた。
そこからはあっと言う間だった。気付けば直ぐ傍にユリウスが居て、こちらを一瞥する藍色の瞳と目が合う。
無意識に片方の手を伸ばしてユリウスの服を掴んだ。一瞬、驚いた表情をしたが、合点がいったのだろう。
小さく溜息を漏らしたユリウスに掴んだ手を解かれた。不安が募った瞬間、動物を撫でるように撫でられた。
その大きな掌にホッとする。気を抜くと泣いてしまいそうだから抜けない。また、胸の辺りが熱くなってきた。
顔を見られたく無くて、エースの背中に顔を埋める。心臓がバクバクと鳴っている。もう泣きそうだと思った。
欲しかったものが一度に与えられて、興奮状態にあるのだろう。言葉で言い表せない感情がぐるぐる回る。
『 彩俐 』
――誰かが呼んでいる。
それが、声であるのか、音かは分からない。ただ、姿も見えないというのに、それを懐かしく感じてしまった。
『かえっておいで』と、声がする。帰りたい。だけど、どこに帰れば良いのか分からない。誰も指してくれない。
身勝手な発言だと思った。
帰って来いというなら、帰り道を示すか迎えに来てくれたら良いのに。それもなく帰って来いだなんて酷い。
何の力を持たない子供が誰の協力も得ずに生きていく事なんて不可能に等しい。それを知っているくせに。
最初にこの世界が危険だと言ったのはxxxだ。傍に居てくれると言っていたのに、肝心な時に居ないなんて。
――うそつき。
「着いたよ」
声に目が覚めた。落ち着こうと瞑目するうちに心地良い揺れに寝てしまっていたらしい。まだ少しだけ眠い。
夢を見ていたような気がするがあまり覚えていない。気付けば部屋の中に居た。「ほら降りて」と、促される。
負担が掛からないように床に足を下ろした。「あー重かった」という、失礼な発言は聞かなかったことにする。
テーブルに荷物を置いてから、ユリウスは部屋を出てどこかに行ってしまった。取り残されて少し気まずい。
先程の衝突は八つ当ったから悪いとは思う。が、あの状況下で無神経な発言をかますのもどうかと思った。
「・・・座れる?」と、不意に声を掛けられてそちらを見遣ると椅子を引いた状態でエースがこちらを見ていた。
流石に椅子に辿り着けないレベルの怪我ではない。小さく頷いてゆっくりとではあったが、椅子に向かった。
「ありがとう・・・」
口は悪いし、何だか怖いときもあるけど、何やかんや根は親切なのかも知れない。否、ちょっと怖いけれど。
その言葉にエースは「ん。」と、短く答えて冷蔵庫からボトルを二本取り出す。そして一本を投げて寄こした。
「夢見悪かったのか?」
蓋を開け、一口飲んだ後にエースが尋ねた。なぜそんな事を聞くのか分からず首を傾げると目元を指した。
そして「涙の跡」と、言葉を繋ぐ。言われて、目元を拭ってやっと気付く。拭う必要があるくらいに泣いていた。
自分でまったく気付かなかった分、少しだけ驚いた。そして、首を横に振った。「・・・覚えてない」と、答えた。
それに対してエースは然して興味を示す事はなく「ふーん」と、答えるだけだった。興味が殺がれたらしい。
暫くしてユリウスが救急箱を片手に部屋に戻って来た。どうやら、手当てをしてくれるらしい。片膝を付いた。
彼に医学の心得があった事にも驚いたが、まさか自ら手当てをしてくれると思わなかった。指先が触れる。
熱を持った足にはひんやりとして心地良い。「痛むか?」と、問われて反応を躊躇う。痛くないわけじゃない。
「病院が嫌いなんだろう?あくまで応急処置だ」
「悪化するようなら嫌でも連れて行く」と、器用な手付きで、手当てを進めながらユリウスが言った。誤解だ。
別に病院が嫌いというわけではない。返答が遅れたのは、素直にそれを伝えて良いか分からなかったから。
しかし、それをユリウスは病院が嫌いだから素直に言えなかったと解釈したらしい。どんな駄々っ子だ、と。
(・・・・十分、駄々っ子か)
苦笑
思い返せば十分過ぎるほど駄々っ子だった。傍に居て欲しいという思いだけで、尊厳もなく土下座をしたり。
止めろと言われても言質を取れるまでは止めようとしなかったり。初対面の人を相手によくもまあ図々しい。
こんな図々しい子供を相手にユリウスは嫌な顔一つしない。否、代わりに結構な頻度で溜息を吐いている。
不意に視線を感じて顔を上げると何だか物言いたげにこちらを見てるエースと目が合った。反応に困った。
紅い双眸から目が離せない。暫くして、思い立ったように彼は口を開いた。「なあ、ユリウス」と、呼び掛ける。
「その子の名前どうするんだ?」
と、尋ねた。確かに記憶喪失のせいで名前が分からない。だから名乗る事も出来ず、呼ぶ方も難儀だろう。
大方の手当てを終えたユリウスが沈黙して、思考する。手元に置くなら確かに名前はこれから必要になる。
「・・・エース。お前が決めろ」
「私は忙しい」と、救急箱を棚に置き、資料のたくさん置かれたテーブルに腰掛けた。そしてあっさり投げた。
何をやっているのだろうと首を伸ばして覗き込んだ。机にはペンと紙と資料。おそらく物書きか何かだと思う。
ユリウスに名前の件のバトンを託されたエースは何やらウンウン考え込んでいる。候補らしき名前が複数。
シロ、クロ、ポチ、タマ......エトセトラエトセトラ
(私は犬か猫か!)
思った
しかし、言葉にすることは辛うじて堪えた。あれでも一生懸命、考えてくれているのだと思う。多分。おそらく。
もし仮に適当だとしたら絶対に許さない。という冗談はさておき、確かに拾ってとは言ったが、犬猫ではない。
犬や猫を呼ぶような名前を付けられてもちょっと困る。というよりも、外で名前を呼ばれたら常識を疑われる。
「・・・せめて、グリーンとかレッドとかブルーとかにしてよー」 「○ケモン!?」
「なー」と、エースに呼び掛けて候補を自ら主張してみる。というか、どうしてエースが知っているのだろうか。
ピ○チュウ可愛いよね。と、知りもしない黄色いネズミが脳裏を過ぎった瞬間に本筋に戻そうと我に返った。
「色が好きなの?」
挙げたのが色の名前ばかりだったからだと思う。尋ねられた。確かに色の名前は綺麗だから嫌いではない。
色が好きというより、否、結局のところ色が好きなのかも知れないけれども。「・・・いろどり」。無意識に呟く。
「彩り?」と、エースが首を傾げる。こくりと頷く。彩るものが好き。配色とか、華やかな変化のことだった筈。
納得したように頷く。そして「でも君、そんな華やかな印象じゃないよな。地味だし」と、失礼な発言をかます。
そして人畜無害そうな笑顔で言い切った。「最後の部分の"り"で十分だろ?」、と。ユリウスが噴き出した。
「でも一文字じゃ流石に味気ないよな」と、考え込む。人畜無害そうな笑顔をしたとんでもない性悪男だった。
もはや突っ込む気力すら起きない。
「りー、だな。うん」
「今日から君はりーだ」と、満足げにエースが言った。うん。もはや突っ込む気力すら起きない。くたばれよ。
命の恩人に対して思ってはいけないことだと分かってる。でも、人の好みをとんでもない歪曲解釈する奴だ。
やはりこの男はとんでもなく性悪だと思った。その証拠にこちらを見るエースの目は少しも笑って無かった。