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第一話。

(逃げないと・・・)


どこか、遠くへ。

誰の手も届かない場所へ、早く。


ずっと走り続けていた所為か、息が弾むどころでは無い。呼吸が乱れ、胸が強く圧迫されて呼吸も苦しい。
足を止めたいと思う気持ちはあるが、足を止めれば捕まるかも知れないという強い脅迫観念に苛まれた。
怖かったのだ。何が?と問われると具体的な答えは出せない。ただ、恐怖が纏わりついたまま離れない。
風の音さえも今は恐怖心を煽るだけ。木の根もとに偶然見つけた穴の中で身体を丸める様に膝を抱えた。


「・・・りー?」

羽虫のようなか細い少年の声が彩俐の名前を呼ぶ。その声でふと我に返り、声の主の方に視線を向けた。
気遣うようにこちらを見つめる夜色の瞳に彩俐は肩を竦めながら苦笑いを浮かべた。気付かれてしまった。
メルは決して丈夫な身体では無い。にも関わらず、長時間走って逃げ続けるなんて無理をさせてしまった。
今だって休んでるとはいえ辛いはずなのに、それを表に出さずにこちらを気遣ってくれる。本当に優しい子。

「・・・・・だいじょうぶ。時間帯が変わったら移動しよう?」

だから今は少しだけでも身体を休めるように、と。メルの黄昏色の髪を梳いて撫でながら、そう言葉を返す。
その感覚に懐かしさを覚える。それが何であったかは思い出せない。でも、愛おしく感じられて目を細めた。

あの場所での出来事が自身の記憶を欠落させたのかも知れない。今はあそこで過ごした記憶しか無い。
むしろ消し去りたいのはあの日々で、欠落した記憶はもっと尊くて大切だったような気がする。憶測だけど。
とは言え、あそこでの生活のすべてが忌まわしいかといえば、そうではない。メルやエストと出会えたから。


「3人だけになっちゃったね」 

肩に寄り掛かり目を閉じたメルとよく似た、だけども違った声。今度は反対側に視線を向けた。「そうやね」。
脳裏を掠めたのはあそこで苦楽を共にした仲間達。全てを連れ出すことは叶わなかった。残ったのは3人。

彩俐とメルと――その兄のエストだけ。

母猫に甘える仔猫のように空いた肩に擦り寄る姿はどちらが女か分からない。だけど、拒絶する気は無い。
エストはおそらく一番近い存在であり理解者に成りうる。自分が現われるまでエストがそこに居たのだから。

【カプリスキャット】と呼ばれる人ならざる力を持つ存在。それを人工的に造り出すのが彼等の目的だった。
時の民の中でもネコとしての素質を持った存在がエストとメル兄弟。故に【CapriceCat計画】に選ばれた。
確かにエストは成功体だった。とは言え、それは彼等にとって望む完璧な成功とは少し違ったようだけど。
ネコは各々に司る【時間】を与えられるらしい。ネコの最上位に位置するのがカプリスキャットであるらしい。


「・・・・・どこにいこうか」

左肩側から静かな寝息が聞こえるのを確認して、呟いた。逃げ続けるにも限界はある。どこに行こうか、と。
そして、エストに視線を向けると「逃げるんだよ」と的を得ない答えが返る。行ける宛てなんてどこにもない。

だから、


「・・・誰も届かない場所にさ。俺と彩俐と、メルと」

何者にも冒されることの無い場所へ逃げよう。そして、辿り着いた暁にはずっと3人で静かに暮らそう、と。
現状を省みるとまるで夢物語だと思った。いつ追手が来るとも知れないのになぜそんな事を語れるのか。

「・・・ねよっか」

そうなったらええなぁ。と、投げ遣りな返事と共にそう告げて、彩俐はゆっくりと目を閉じた。閉じるだけだ。
随分と長い間まともに眠っていない気がする。寝るというより気を失うという表現の方がおそらく正しい筈。
そもそも逃げ回る生活の中で暢気に眠る余裕なんてどこにも無いのだけれど。だから夢だってもう見ない。


―――筈だったのに。



くるりと反転する影。


彼は彩俐の前で宙に浮いたまま器用に一回転する。そもそも何で浮いているのか突っ込みどころはある。
だけどそれよりも驚いたことは夢魔と名乗った彼は自分を知っているようだった。「どうして?」と、尋ねた。
フッと口角を持ち上げて夢魔が笑う。「私の領土の住人だからな」と。慈しむ様な眼差しで彩俐を見つめる。

初対面の相手にそんな目を向けられてたじろがない筈無い。戸惑ったように一歩後ずさると、寂しげな瞳。
夢魔は「きみの敵じゃない」と、首を横に振る。言葉にはせず、心の片隅で思った言葉を何故汲んだのか。
警戒を孕んだ目を向けると夢魔はにが笑いを浮かべた。「前より聞こえ難いよ。だが、まだ声は聞けるさ」。


「・・・きみの声を聞けるのは、私だけの特権だからね」

一度に向けられた言葉に処理が追い付かない。彩俐の困惑を見ぬフリして夢魔が一気に距離を縮めた。
「はやく帰っておいで」。彩俐、と。名前を呼ばれて小さく肩を揺らす。その声に強い何かを感じる気がした。

「・・・・・夢魔。きみはなに?」

敵なのか分からない。敵では無いと彼は言う。だが、自分が彼を知らない以上は警戒の対象でしかない。
にも関わらず、こんな風に接しられるとどうして良いか分からなくて困る。尋ねる声は困惑を隠せなかった。
今は守らなければならないものがある。メルもエストも大切な仲間だ。絶対に危険な目に遇わせたく無い。

「夢魔じゃない。・・・ナイトメアだ」と、背中までの長い烏の濡れ羽色の髪を手に取って、ナイトメアが言った。
「・・・ナイト、メア」。無意識にその名を反復する。口にすると同時にナイトメアは嬉しそうにフッと微笑んだ。
不意に空間が歪んでいく。ナイトメアは残念そうにそれを見つめる。そして彩俐の耳元に顔を寄せた。囁く。


――『今度は夢の外で会おう』
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